「分け(≒訳)」が解る
やっぱり「理解する」と言うことは、アレとコレが「DO!違うか?」ということの、その理由(≒訳)が解ったときが、解り易い!?
だから「比べるモノ」あるいは「物差し」があれば、より解り易い
そして、この世の「メジャー」は色いろ有ったけど、長らくそれは変わらないで来たし、変わって欲しくないヒトもいる
言葉に拠る尺
文字が無かったとき、それは「口移し」で行われた
一言一句、それを変えることは禁じられ、何時しか文字の体系が出来ると、そこに書き移すことになった
それは「モノゴトの独占」からの自由でもあり、それを所有する者からの解放でもあった...
けれど、みんなが共通して「信じることの出来るモノ」がなければ、纏まらない
だから、信じるための「罪と罰」というモノを造り、道を外れない様にした
ときとして、過ちは、ヒトの観ていない処で起こってしまうモノ
そして、それは許されないモノであればあるほど、隠そうとする
あるいは、誰がやった!かが、解らない様に「名無し」の存在、あるいは「藪の中の出来事」にする...
もうそろそろ「面倒な分け方」は止めて、もっと大らかにやりたい
記録がある!だから、そこから積み上げて考える方が解り易い
だけど、現実はそれほど単純ではない
一人の人間の中にも、色んな「面」があるし、現場は机の上の通りには存在しない
「鏡に映った世界」と「現実の世界」を、なるべく!?重ね合わせなければ活けない
ときに、ニンゲンは自分の「鏡」に映った世界を優先させたいモノ
自分の「物差し」に合わないモノを否定したくなる
そのためには、それぞれに!それぞれの「物差し」を観るための「眼差し」を磨かなければならない
まずは、自分を自分から引き離さなければ、自分は観えては来ない...