法治国家
日本は、現代の社会の「より正しいであろうカタチ」である、法治国家の一つである
だから、色んなモノゴト&分野には「法」が必要であり、常に、その「法」は関連する世界の全体を観て、その世界がスムーズに廻る様に、創られていなければ為らない
その「法」が、その影響が及ぶ世界のモノゴトを、どれだけ!シュミレーションしているのか、そこをチャンと観ているのか?が、問題である
それこそ、みんなの手で書き変えることが出来る「現代の法」が出来るまでは、聖書なりコーラン、経典などが、この世を治めていた
それは、書き変えることの出来ない、絶対的なモノだった
だから、それをDO!解釈するか?あるいは、それをDO!のようにこの世界に活かすか?が問題であった
現代の社会は、それと同じ様に「DO!解釈するか」ということと共に、それを創り変えることの出来る「法」を持った
そして、その基本は「民主主義」であり、それは「全員参加型のシステム」でもある
けれど、それは得てして「情報操作」に拠って加工されてしまうモノであり、全員が「この世のすべて」を観ている、そして診ることが出来るワケではないから、どこかに判断の基準を含めて「足りないところ」が出て来て仕舞う
それを、DO!克服するか?
それは、結局のところ「共(≒友&智)に信じ合うこと」で繋がった、
お互いの顔の観える世界を創ること
お互いに、相手に背中を預けられる関係、
それに基づいた役割をブンタンした世界を創ること
現代は余りにも、そんな積み上げて行くのが難しい「ココロから信じること」を置いて気ボリにして、色んな関係だけが繋がって行ってしまった
「お互いの顔」を観ることが欠落したまま、色んな関係性だけが繋がっているから、息苦しい
案外、顔を合わせて、話しをする(ときに≒腹を割って...)
そうすると、お互い理解し合えることがある
今まで、鬼だ!妖怪だ!?と、この世の物(≒者)ではない!?と思っていた相手も、その顔が観えてくる
ときとして、お互いに「知らないことがある」から、違った結論になっている場合も多い
それを、すり合わせしないまま、遠いところで持論だけ語っていても始まらない
それは、まったく「違う世界」に棲んだまま、場所だけ同じトコロに住んでいるようなものだから...
すべてを否定するのではなく、まずはお互いに「相手」を認める(≒見留める)ことから始まり、落とし処、あるいはバランスの取りドコロを探らなければならない
仲間を信じて、前へ進め!!