繋がる「カタチ」
ヒトとヒトとが繋がる方法
ほんの100年前までは、その多くは「言の葉」だった
多くのヒトは「文字」は書けなかったし、いまの様に「電脳機器」もなかった
だから、それは記録に残らないし、前に言ったことと違うだろう?っていう突っ込みも、そうだったっけ!?の、ひと言で変更が利いていた
或る種、記録が無いから、途中でより良い方法があればそれへの変更も簡単だったし、胡麻化そうとすればゴマカセタ時代...
データには縛られない、自由な世界だったと言えなくもない
いま!のニンゲンは「今の状況」が、今までもズ〰ッと「今と同じ様に続いて来ている」と思っていたりする
けれど、K-tai 電話も30年前には存在しなかったし、パソコンもココまで世界に普及したのは、ここ10数年の間の出来ごとである
最先端を行くヒトたち
彼らは、有り余る「知的好奇心」を持ち、もっと便利に!の競争世界に住んでいる
そして、ときに「すべての人間が、自分と同じ」と思ってるか、自分たちの考え方を理解出来ないヤツは、単なる馬鹿である... って思ってるフシがある
かつ、主流!と言われるトコロに居る場合は、それが当然である!って、ちっちゃな声に耳を傾けなくなる
けれど、ときに全く新しい発想は、そんなセンターではない、流れの外れ、取り残された場所で生まれる場合も多い
現在の状況
コミュニケーションの方法は、たくさん有るし、電話ひとつ取っただけでも、色んな種類や使い方が有る
だから、それぞれの判断に於いて、それを使い分けなければならない
そのとき、場所、相手、その内容...etc. の「TPO」に合わせた、使う「色んな順位」を考えて、利用しなければならない ...どの電話を手にするか?の前に決めなければイケないことって、沢山ある
パソコンは便利だよね!みんな分かっている
だけど、その使い方を習得するためには、時間が掛かる !! ことも分かっているから、最初から近づかない方がイイ!って考えているひとは、人類の!?8割はいる
いま、使っているヒトの多くも、仕事だから... って、仕方なく使っている(≒使われている)
だから、言われた通りの使い方しかしない(≒出来ない)し、そこから外れるとすぐにフリーズしてしまう
それは、色んな社会の「モノゴト(≒システム)」にも通じること
足ることを知る
生き物は、満たされていれば、それ以上は求めないし、無理して「足りないこと」を探す必要もない
けれど、みんな、それを「ビジネス」というオブラートに包んで、もっともっと!を求めなければイケない世界にしようとして来た
ライオンは、腹が満たされれば寝る
ココロが貧乏なニンゲンは、それでも狩りをしようとする
そんなに、みんなが狩り出来る程、この世は広くは無い
...だから人間同士が争うことになるの哉?
気になるシリーズ
6月24日 美空ひばりの命日
重たい「ページ」
ホームページやブログの「造作(つくり)」について
以前にも、何度か書いた!が、そのHPなりBlogなりで、
その表紙≒フロントページを開くのに、かなり「時間の掛かるモノ」って結構、多い!?
頼むから!表紙だけは、スムーズに開く様にしてもらいたい
...それが「みんなの共通」の、ネット上のエチケットになって欲しい
確かに、こんなに、みんなが情報発信する状況になる前、パソコン通信が始まった頃は、何処へ行っても、味気ない「文字の羅列」がパソコン画面の在り様だった
その後、HPビルダーなどのソフトが出来た頃、表紙に「面白い!仕掛けがある」と、みんなが集まって来る... ということで、みんな趣向を凝らし出した
次に、画像や音を取り込める様になり、表紙の重さは、ドンドン重たくなって行く(この時代は、パソコンのネットからは離れていたので、オンタイムでは知らない)
... だから、未だにその時代の「遺跡」っぽいページは、多数見かけることが出来る
確かに!ページを造る側から言うと、
最新の機器を入れ、通信回路もイチバン早い!システムに接続するのが基本
それこそ、その能力をフル稼働させて、どうだ!って言うほど、色んなテクニックをそこで見せたい!?っていう思いは、分からないでも無い
しかし、みんながみんな、最新の機器を入れて、「ヒカリ回線」で繋がっているわけでは無い
未だに?画面の前で、左から右に新しい画面が開いて行く状況にいるヒトも居る...
また、こんだけ「検索サイト」や、色んな発信地がある!状況下では、ひと処に必要以上に留まっている時間は、そのヒトにストレスと与えるだけである
最近は、画面が生き物のように「揺らぐモノ」も増えて来たりして、それはそれで面白い
が「公(おおやけ)」っていうことで考えれば、それを見て「船酔いするヒトもいる!」ハズである
それは「個人の」あるいは「趣味の」っていう、情報発信にも言えること
「みんなに見てもらいたい!」なら、サクサク動くものがイチバンに決まっている
ブログパーツやアフェリエイトが、テンコ盛り!!なブログを見ると、あんたの目的は何?ってツッ込みを入れたくなる...!?
Simple is BEST!
新しい文化は「混沌」の中で生まれるけれど、ソロソロ色んな分野で、贅肉を落とす作業をしなければ、「旭(≒未来)」は迎えることは出来ない...カモ世?
こんな複雑な「ブログ」を創って置きながら、お前が言うか?って、それも一理ある... 哉 ツ(^o^)シ
気になるシリーズ
全国伝統的工芸品センター ( 財)伝統的工芸品産業振興協会 )
そろそろ現れ出したぞ!? 「お役所 尺度」の法人が!
「名前」について
「名は体(≒態)を表わす」
本来?「1つのモノに、1つの名前」であれば、混乱は無い!?
けれど、それではこの世は、言葉で溢れ返ってしまう!?
まして、それこそ「宇宙の果て」から「ニュートリノ」まで、色んなモノ事が分析されて、細分化される世の中では、モノゴトに1つづつ「名付ける」ことは、そのこと自体で大変!なことになってしまう
また、その言葉を覚えるだけでも、一生モノになってしまう??
だから、人間は色んな事象に対して「グループ分け」を行い、
同じ「分野」「成分」「内容」...etc.で、モノをひと括りにして考える様になった
言葉も、それぞれの「世界」で、同じモノを「そこで限定!」で使うことで、みんなで共有出来る様にした
あるいは、そこでしか通じない言葉も存在している...
出来るだけ!みんなが同じ言葉
つまり、≒それが指し示すモノと一致しているコピー
それを使っていられれば、もっと活き易い
だけど、それは難しい
まして、言葉は活きモノであるし、手垢(あか)が付く
ときに、実態にそぐわない「綺麗言(ごと)」なことも多い
だから、3つ目の「眼」で見なければ為らない?
ツ(^o^)シ
現在、ますます「リンク先」が増えて行っている...
色んな「視線」でモノゴトを考えて診ると、それぞれのブログ上のページの内容が変わってくる
また、誰と誰との結び付きを通して、そこまで到達するのか?
そして、このブログワールド内の何処にリンクを貼るのか?
... も併せて、色いろと思案中
気になるシリーズ
bing translator (翻訳)
「市(いち)」を考える
「市(いち)」は、軒の下に「巾(はた)」をぶら下げて、ヒトを集めること
だから、そこには、必然的に「ヒトが集まってくる」
「町」は、田んぼの横にヒトが棲んでいるということ
そこは、田んぼや畑が主役!?であり、そこに集まるのも必然である
「村」は、木が目印であり、一寸(ちょっと)だけ、そこに住んでいること
そこは、やっぱり「木」が主役であり、その下にヒトがいるよ!っていうこと
... つまり、「市」は、モノを売り買いする、商業のために存在する?
あるいは、「町」や「村」に住むのは、自然との関連がある!
が、「市」は、まったく「人間社会の勝手な都合」と言えないこともない?
だから、必然的に「市」には、人工物が溢れ返る!?
そして、効率の追求ということが行われる...
そこの主役は「ヒト」であり、しかも巾(ハタ)を立てたモノが、その「場所」をコントロールする...
こんだけ便利だから、アンタもココに住みなさい!ってやる
どんだけ便利だか分からないけど、そこに住まなきゃ、おカネが廻って来ない
あるいは、「町」や「村」に居ては、情報が手にはいらない
だから、都へ行こう!になる
また「巾」は、字や絵が描いてあり、みんなに知らせるモノ
それが無ければ、そのお店に入らなければ、誰もが「何が有るか?」を知ることが出来ない
「情報」はまさに、その「巾」である
いま、インターネットにヒトが集まる...
それは、より遠くまで、かつ瞬時に、その「巾」を観ることが出来る場所だから
けれど、それは、ディスプレイ上に見える&スピーカーで聞こえるだけの「ニセの世界」
本当のオリジナルは、そこには無い...
「オリジナル」と「コピー」の関係
それを、見極めなければならない...カモ世?
ちょっと気になる...
漢字習熟度検定 (準備中)
どこに置くか?
ここのところ、このMARUTAさんに在る、ブログ・ワールドではなく、
それ以外の「別館」がある!? ほかのブログ・サイトやSNS・サイトで、
暴れていた!?
この「旅」も、無駄ではなく、新たな出会いや発見が有った
ココのところ、それらを踏まえて、
もう一度「尺度の組み換え」をやりたい!って思い始めている
たぶん、ココまで集めた、色んな世界へのリンク
マイ・カテゴリ/
それぞれに、もう少しこうしたい、あーしたいがある
もっと言えば、それぞれのブログも、創り直したいトコロも幾つが出て来ている
また、色んな制限(出来ないこと)は、万能!って言われているネットの世界でも色々ある
根本的に「人間には身体が1つで、手が2本...etc.」しかない
1日は24時間、1年は365日しかない...
言うなれば、人生にも、終りがある!?
個々の事象に於いては、色んな「限界?」がある
だからと言って、何もしなければ、始まらない!
同じ生きるにしても「やらないよりも、やった方がマシ」
何を DO!するか?って、考えている ツ(^o^)シ
あるいは、何を何処に記録して置くのか?って悩んでいたりする
ネット上で「情報を共有する」ということ
... それぞれのヒトにとって、必要なモノは変わってくる
「情報」に関しても、それぞれのヒトに拠って『必要なモノ』のカタチも違ってくる
あるいは、並べる順番&分類の仕方も変わるし、その刻々に拠って「モノゴトの重要度」も変わって来る
それこそ、千差万別、色んなカタチがある
ココのトコロ、パソコンの主に使う「使用ブラウザ」の変更や、その中の「お気に入り」の整理、
主に「メルマガを受信しているメールボックス」の分類用ホルダーの整理、
などなどもやっていた
簡単に出来る!は、色んなモノゴトを混在させることになる
「集めてから、あとで、まとめてやる」ってすると、色んなモノが堆積?して、
「何故、それを保管したのか?」っていう、最初の理由すら見失うことになる
そんなこんなで、色んなモノが、ゴミっぽくなってしまう...
蓄積は、整理があってこそ意味がある!
を感じている、今日この頃である
ちょっと気になる...
改めて「情報」について
この世は、まず知らなければ、すべてが始まらまい...
空間的に「すぐ隣りに在ること」でも、それを知らなければ、あるいは自分が理解しようとしなければ、そして自分に関係あることって思わなければ、それは「無いこと」と同じことになる...
その昔、解らないこと、あるいは理解を超えた出来ごとに遭遇した刻、
それは、人智を超えた、何らかの「お化けの仕業(しわざ)」として、
みんな理解していた
その現象を、長老や霊媒師?に「祟りじゃ!」って説明されれば、それでみんな納得していた
だから、その時代、この世には、たくさんの「妖怪」あるいは「怪物」が棲んでいた!?
まして、話し言葉が違えは「それは人間じゃない!」って言い切ることも出来た...だから、どんな非情なことも出来た
そして、この世の「未来」についても、それ実際に知っているヒトは存在しない
ただ、何らかの「可能性の法則」はある
それを見つけたとき、その延長線上に「こんな風なことが起こる!」
あるいは、このことは「10中8、9」、こういう結果になる
...かも知れない!って言えるだけである
ときに、純粋な(≒単純な)「法則」でも、それを理解出来ないとき、あるいは、その事実が自分の既得権を侵すって思うヒトがいたとき、その法則はそれを見付けたヒト諸共(もろとも)に闇に葬り去られることが起こっていた
或る種、今までの人間の歴史は、その繰り返しでもあった
けれど現代は、色んな分野で、色んな法則が生まれ、それを使って、色んな新しい発見や技術が生まれ継承されて、たぶん、100年前よりは、生活(in 先進国で)は豊かな暮らしを営んでいる...
また「命に関わる!」っていうことへの、予防&防御っていう分野でも、それなりの「可能性への研究」が発達したから、まだ日本では、豚ゆらいの新型インフルエンザが「パンデミック(世界的大流行)」っていう状況で、国内に500人超の罹患者がいても、まだ死亡者は出ていない...
それは「日本」という国の、医療という分野での状況であり、
世界では3万人に近づいている 6月13日現在 from CNN.co.jp
そして、死者数は145人にのぼっている
その状況を、他人事と考えるか?DOにかしなきゃ!と思うかで、そのヒトの住んでいる世界は違ってくる!?
また、どちらにせよ、自分の身体がある、その「現場」で出来ること
それ以上のことは出来ないことも、確か
DE! 改めて「情報」
どんな良いモノを創っても、それを利用するヒトがいなければ、宝の持ち腐れになる
それを、理解出来る人間がいなければ、どんな法則も機能はしない
また、そのモノゴトの価値を理解出来るヒトが、なるべく複数いなければ、今の時代は、それを利用することは出来ない
色んな動物、あるいは生物の中で、他の存在の「意図するモノゴト」を理解し、それを意図的に伝達出来る、あるいは「みんなで共有できる」のは、ニンゲンだけである
それは元来、「信じること」と同義語(≒イコール)でもある
確かに、昆虫の「蟻(アリ)&蜂(ハチ)」達は集団生活をするが、それは個々の個体が「意識して」行動しているわけではない
また、オラウータンやチンパンジーなどの霊長類でも、まだまだ「個の認識」性は低い
もしかすると、イルカやシャチ、クジラ達は、人間が理解していない「意志の交換」をしているかも知れないが、いまのトコロ、空気中に存在するモノの中で、特異な存在は「人類」だけである
けれど、この「信じること」というモノゴトは、とてもデリケートなものである
簡単に、足元から崩れ落ちるものである
だから、古くは「家」という、より取り替えの利かない「血」の繋がり、
「お経」や「聖書」「コーラン」等の、何らかの「絶対的なモノ」で護ることになる
あるいは、現代では「法」という、論理の助けを借りなければ、成り立たないモノでもある
現代の「人間の世界」は、多くの「情報」という、写したモノで廻っている
元来「情報」そのものは、オリジナルではなく「偽(ニセ)物」である
だから、それを持った者は、常に「色んな判断」をしなければならない
けれど、色々な「情報源(ソース)」は増え続け、誰を信じるか?ということも含めて、この世は益ます、複雑になっている
「話せば、解かる」
たぶん、面と向かって話せば理解できること、あるいは、現場に居れば誤解が生じないこと
それって、たくさんある
だけど、ひと所にみんなが居ては、息苦しい!?
「社会」が回らない...
ハテサテ、最後の課題は、
如何にして、みんなが共有できる、信じることの出来る「情報」のためのシステムを創るか?ということである
ツ(^o^)シ
ちょっと気になる...
... 猫には出来ない!?