「節」を創る

 

1年365日(去年は閏(うるう)年で、366日)

 

子どもの頃は、毎日が新しい発見!の日々の連続で、1日そのモノも長かったし、色んな思い出に彩られている

人生80年の半ばを過ぎ、同なじ様な日々が続き、また「これをこうすれば、こうなる」っていうことをウスウス知り、そんな「知恵が付く」と、日々の過ぎ行くスピードは増していく...気がする

 

そして、色んなモノゴトが細分化され、複雑になって行く中、色んなモノゴトの、ボーダー・ラインが不明確になって行く

あるいは、色んなモノゴトの分担が細分化され、色んなラインが交錯して、何が何だか解らなくなっている

 

「医は仁術(じんじゅつ)」と呼ばれていた頃、生と死の狭間は結構、とっても明確だったし、そのちょっと前までは、病気は人知を超えた原因や理由があり、それは「日頃の行い」と結びつけて、説明されたりもした

案外みんな知らないことが多く、その分野の専門家の言葉には、納得していた

 

また、正月に関しても、そのときにしか食べられない御馳走があり、だいたい正月三ガ日までは、働くヒトはいないで、すべてのことが「止まって」いた

そうやって、1年なり1月は、それぞれの「節々の日」って言うモノで、何らかの形で区切りが付けられていた

 

貧乏暇無し(びんぼう、ひまなし)

 

何か現代におけるそれは「財布の中身」っていう具体的なモノではなく、ココロの中の「貧乏さ」を表わす言葉に変更になっている!?

あるいは、他のヒトのことを「思い遣る」そんな想像力が欠如しているから、何となく欲求不満に陥っている感じがする

 

ココロの貧困さが、色んなモノを欲しがり、馬車馬(ばしゃウマ)の様に働き続ける、企業家と呼ばれる人たちは、忙しく働くことを他の人にも要求してきた

まして、自分の財布の中身が少なくなって来ると、簡単に派遣ギリをして、義理に欠くことを平気で行えるようになる

そんなヒト達が増えて仕舞った ...!?

何処かで、区切って上げなければならない...??

 

この世の楽しみの一つ、音楽

その「音を楽しむ」ためには、リズムあるいはテンポが必要

 

それのためには、同じスピードで4拍子ないし3拍子を繰り返して、トキを刻み、それに合わせて呼吸を合わせて行く

そのことをしなければ、みんなで「同じ時間」「同じ感覚」は楽しめない

 

確かに、みんなそれぞれのリズムを持ち、自分のテンポで生きていたい

だけど、何処かで同じリズムを刻まなければ、音楽は成立しない

 

この世には、色んな音がある

 

それを見分けてて、節を合わせて観なければ、

何時まで経っても「あなた」の存在は、理解は出来ない...