「分け(≒訳)」が解る
やっぱり「理解する」と言うことは、アレとコレが「DO!違うか?」ということの、その理由(≒訳)が解ったときが、解り易い!?
だから「比べるモノ」あるいは「物差し」があれば、より解り易い
そして、この世の「メジャー」は色いろ有ったけど、長らくそれは変わらないで来たし、変わって欲しくないヒトもいる
言葉に拠る尺
文字が無かったとき、それは「口移し」で行われた
一言一句、それを変えることは禁じられ、何時しか文字の体系が出来ると、そこに書き移すことになった
それは「モノゴトの独占」からの自由でもあり、それを所有する者からの解放でもあった...
けれど、みんなが共通して「信じることの出来るモノ」がなければ、纏まらない
だから、信じるための「罪と罰」というモノを造り、道を外れない様にした
ときとして、過ちは、ヒトの観ていない処で起こってしまうモノ
そして、それは許されないモノであればあるほど、隠そうとする
あるいは、誰がやった!かが、解らない様に「名無し」の存在、あるいは「藪の中の出来事」にする...
もうそろそろ「面倒な分け方」は止めて、もっと大らかにやりたい
記録がある!だから、そこから積み上げて考える方が解り易い
だけど、現実はそれほど単純ではない
一人の人間の中にも、色んな「面」があるし、現場は机の上の通りには存在しない
「鏡に映った世界」と「現実の世界」を、なるべく!?重ね合わせなければ活けない
ときに、ニンゲンは自分の「鏡」に映った世界を優先させたいモノ
自分の「物差し」に合わないモノを否定したくなる
そのためには、それぞれに!それぞれの「物差し」を観るための「眼差し」を磨かなければならない
まずは、自分を自分から引き離さなければ、自分は観えては来ない...
色いろな「距離」
やっぱり、モノゴトには「限界」っていうモノがある
確かに、気力で乗り越えることが出来る!こともあるが、1日は24時間しかないし、人間は馬よりも早く走ることは出来ない
また、最近は「コスト」や「責任」という概念があるから、おいそれと今までの流れを変更するのには、色んな意味で熟慮が必要なことが多くなっている
だから、人間の歴史は少しづつ「色んなモノゴトを分担すること」で、その全体のバランスを取りながら、みんなでやる!ことで、色んな困難を乗り越えて来た
日本における、歴史上の「色んな先人たち」
世界で!エネルギー革命が起きる以前の、ときに「宗教家」で括ることの出来るヒト達
例えば、○○大師と呼ばれるヒト達でも、実際は「言葉(例えば、お経など)」で人々を引っ張って行ったのではなく、その時代のイチバンの脅威!である、言うなれば「龍」に喩えられる、河川の整備を手がけたから、後世に名を残している
あるいは、気候に関する、それまで蓄積された「情報」を、一子相伝的に受け継いでいる立場だったから、崇められて来た
そして、すでに鎌倉時代には、ほぼ「大和人」という括りの中に、殆どの日本人は組み込まれていた
けれど、それは、京都なり鎌倉なり、そして江戸なりに、権力を集中させる体制が出来上がって行く流れの中で、単一民族と言われる様になっただけである
それは、必ずしも「均一の価値観」に染められていたワケではなく、言葉が通じるという位の、或る面、漠然とした繋がりの中に、取り込まれていたに過ぎない
また、「幸せ」というモノが、第一義的に腹を膨らませることだった時代
それを安定させるためには、やはり「農耕」というモノが、イチバン!安心出来るモノであり、貨幣制度が浸透していく中で、土地の広さで「財産」が量られる様になった
その土地というモノは、ある程度の「広さ」で所有しなければ、色んな意味で不安定になる
だから、地主と呼ばれる立場が生まれて来た
そして、個人で所有するのでは、その世襲のサイクルが短くなってしまい、常に揉めることになる
だから、「家」という制度でそれを継続して行く様にしたのが、日本では、律令制の時代から昭和20年までの、約1,400年間の「日本の風情」
けれど、富の集中は、また違った意味の「競争」を生むから、三代までには法律上は「世襲するモノが無くなる」様にしようとしたのが、必ずしもそうは問屋は卸さない...
まだまだ、社会には不安定要素があるし、やっぱり「自分の子だけ」は可愛いから、あの手この手で、自分の資産を子供に残したくなる
一方では、必ずしも「土地の広さ≒価値基準」になるという、時代は終わっている
それにも関わらず、日本の租税は「固定資産税&路面価」というモノで、収支バランスを取ろうとし続けている
それが東京の土地代が「天文学的な値段」になり、アタマ撃ちになったら、ワケの解らない、金融工学なる「錬金術」に手を出して、それまで積み上げて来た、砂山をチャラにしてしまった
この半年間は、これ幸いと?先送りした「借金の額」を見せないで、まずはバラ捲け!ってやっている
結局、そのツケは利子が付いて、庶民にまわって来る...
確かに、ポンプを機能させるためには、呼び水が必要
だけど、色んな意味で「今までの論理」では無い、全く新しいシステムを創らなければならないときに、今までのシステムでモノゴトをやっては、自分たちの首を絞めるだけである
「100年間の未曾有の」とかではなく、人類の数千年単位での「理念」の変更を伴う、発想の転換をしなければ活けない刻が、今である
取り合えず、「みんなで、それを理解する」
そのためには、最低2つに分かれて、自分を相手に映して観なければ解らない
本当の「道」は、たぶん真ん中の何処かにある
綱引きをしながら、そのバランスが何処で取れるか、勝負してみるがイイさ
「マニフェスト」という言葉だけで、ヒトは幸せにはならない
それは、羅針盤にはなるが、船を動かすのは、結局「ヒトの手」である
やる気を起こさせる、背中を見せられなければ、すべては闇である
先人たちは、そんな背中を持っていたから、先達(オピニオン・リーダー)になれたのである...
ツ(^o^)シ (^o^)♪ ※ そして、戦う相手は「己自身」である!
モノゴトの「順番」
ココの処、このMARUTA さんにある「オフィス&ブログ衆(総計108!?)」のヴァージョン・アップをしないで、オンモをホッツキ歩いている このブログ・ワールドを創り始めて2年の間は、一人シコシコと、それらのブログ衆のページを創って来た が、この1〰2ケ月ぐらいは、新規に登録したSNSやついったーで、色んなヒトとコミュニケーションをとったり&勝手に?色んなヒトやブログ等を発見!している あるいは、他の方の創っているブログなどに「コメント描き」をしている... 色んなヒトとの結び付きは、この100年位の間に、大きく変わって来た それまでは、庶民が使える「手紙」も「電話やパソコン」も無ければ、それこそ色んな交通機関すら無かった 鉄道だって、旅客用になったのは「観光」というモノが産業として意識され始めた50年位前からだし、それまで資源の輸送を主たる目的にして造られた鉄路は、ドンドン姿を消して行っている... それまでは、殆どのヒトの「結び付き」は、それこそ!目の前に居るヒトだけであり、家族や住居の村の町内会ぐらいをイメージして繋がっていれば良かった だから「村八分」とは、村民としての存在を否定されることだった また、色んなモノゴトが、そのヒトが所属する「村」の中の、あまり変わり映えしない!?立場に拠って、それに沿ってやっていれば良かった あまり、変化や刺激の少ない世界であった けれど、この60年ぐらいの間は、色んなことが喧(やかま)しくなっている かあちゃんたちの「井戸端会議」的なことがテレビで取り上げられ、自分が見たいと思うモノを紙面に載せろ!と言って「週刊新潮」を創刊させた、斎藤十一の号令に乗って、色んな「週刊誌」が作られ、それを読むのが、庶民の習慣になった 江戸時代「ヨミウリ」と呼ばれていた「新聞≒NEWS Paper」も、東西南北から色んなネタを集めて、面白オカシク書くのが当たり前になり、トキに本分である「ジャーナリズム」を見失っている... 「末は、医者か大臣化?」と言われた、聖職者と言われた立場も、単なるサービス業の一つとカウントされる様になり、すべてが「職業はみんな同じ」で括られるようになっている 確かに!「尺度」を変えれば、色んな判断が出来る 例えば、平泳ぎの世界記録も、その記録はクロールの中学生の県大会の記録と、どっこいドッコイだったりする やっぱり「優勝チーム」といっても、リトルリーグのチームは、県大会でベスト4くらいに入る、中学生のチームには勝てない だから、トキに「言葉では同じ!」ということでも、考え方が変わると、意味がゼンゼン違ってくる それぞれのヒトの『尺度』は、星の数ほど、この世には存在する そして、それは「他のヒトに伝えYoh!」としなければ、伝わらなし、聞こう&理解しようとしなければ、解り合えるはずもない この世は色んなモノで溢れている だから、モノゴトの順番を決めることも、それを伝えるための「方法」になる 書いてあるから良いだろ!というのは、傲慢である モノゴトの表現の仕方を含めて、コミュニケーションの方法である まだまだ、この世はカオスの中にある あるいは、ゼッタイこれしかない!って言って、その後ろ側に隠れようとするヤカラの思惑で動いている もうソロソロ、そんな「ニセの平等観」から自由にならなければ、みんな活けて無い也 ツ(^o^)シ ※アチコチのブログに告知していた「びほろ和牛まつり」は、悪天候の ため、屋外のイベントは中止になってしまいました...残念 スタッフのみなさん、お疲れ様でした (^o^)♪ ちょっと気になる 全国国道一覧表 & 国道峠一覧 on Low Level Laboratory 浅草サンバカーニバル (公式) アレグリア (音)
それぞれの「役割」
やっと、この MARUTA さん のサイト以外に創った「フロント(twitter や別館など)」
そして、私のパソコン内のブラウザ上の「お気に入り」の配置
ブラウザの「WINDOW」の開ける枚数&その順番と、その役割...etc.
その『全体のシステム』の「カタチ」が出来て(≒観えて)来た
これで、結構スムーズに、色んな処に飛んで行ける...蓮!?
それぞれのヒトや組織には、そのモノゴトの「いま!までの繋がり」や「それぞれの考え方」がある
だから、常に「俺の言う通りにやれ!」とか「俺のトコロに説明しに来い!」は、甚(はなは)だ傲慢過ぎる
貴方が其処に居る!のが分かっているなら、その近くまで行けば良い
そこに行って(≒同じ目線に立って)視なければ、分からない、理解出来ないことは、必ず存在する
そして、必ずしも「まったく同じでなければ活けない!」というのも、違った意味での傲慢であり、所詮、みんなはそれぞれ違うのであるから「すべてを共有」することは出来ない
IMAGINE ≒想像力(いま!を生きるヒト)
その羽根で、「貴方と私」の間にある、大きな谷!を飛び越えて行かなければならない
そして、それを支えるのが、Believe (信じる)という、言の葉
それらを使って、行けば、ほぼ「すべての事」を乗り越えられる
話して診なければ、伝わらない
聴こうとする「耳」がなければ、伝わらない
どちらも「ほどほどの加減」で無ければ、解り逢えない
つたえYoh!とするココロ、受け止めYoh!とする風呂敷!?
それらがなければ、この世は「闇」
何時まで経っても、門の向こうに「音」が在る...也
ちょっと「役割ブンタン」の変更
総合的に言いたいことは、ここ オフィスに描く
瞬間的なモノゴトは、ついったーで、ツブ焼く ことにした
ツ(^o^)シ & (^o^)♪
追記
やっぱり、日頃、使っていないと、腕が落ちるというか、やり方を忘れてしまう哉
ホームベースの蓮!?の、マルタさんの「システムの仕様」を若干、忘れてしまった処があった
最近、定期的に覗きに行っていた処にも、ココのトコロ行っていないし...
気になるシリーズ
雷(いかずち)サマには勝てないはナ~ッ!
いま、1時間ほど、カミナリ様が暴れていた
結構、ドンドコやらかしていた
近くに落ちたみたいで、家中が揺れた...
幾ら、電脳クンたちが偉い!って言っても、電気の塊みたいな「親玉さん」が出てきたら、退散あるのみである
ヘンに意地を張って、もし直撃されたら、そのアトの始末が大変だ
動物の体の中も「水分」と一緒に、微弱な電気が走っている
電脳クンたちは、水が流れていないだけ、影響が大きい
まずは、通り過ぎたらしいから、クワバラくわばらということで、作業を開始しYoh!
気になるシリーズ
また。ひと区切り
※差し当たり、このオフィスから広がるワールドは、
右のサイドバーの「マイ・カテゴリ」 または 「はじめに ツ(^o^)シ」
で確認下さい
※このブログに有った「文章系ページ」は、適当な?タイミングで
ほっとな日記2009 ( INDEX )へ移動しています
ここの処、アチコチに「お出掛け」したことをまとめてみた
New Works (カテゴリ) へ GO!
ココに「別館&ついったー」関連のリンクを集めてみた
また、別館を増やしてしまった...
また、一つ歳を録ってしまった
けれど、いつもの「日々」は繋がっており、それは「目印」でしかない
気がつかなければ、あるいは「意味」を見つけなければ、それはサラッと過ぎて行くモノ
ほぼ人間以外の生き物は、永遠に続く「今」だけしか知らない
けれど、人間は、前後左右、上下、そして、過去と未来を知っている、それを写す「記録」を持っている
そうやって、色んなモノを「置き換えること」が出来るから、楽しいし、苦しいとも言える
「区切り」を付ける、あるいは「節(≒不死 or 富士)」で分けるから、幸せを感じるし、鬱陶しいと思ったりもする
モノゴトには「ウラ」と「表」があり、白から黒まで色んな色がある
ただ「絶対というモノがある」とするならば、この一瞬から色んな方向へと広がっている「世界」が、たった1つしか無い!ということ
そのすべてを「自分」と観じるならば、唯我独尊は成立する...蓮 ツ(^o^)シ
※ そして、戦う相手は「己自身」である!
気になるシリーズ
色いろと「思考錯誤」中
ここの処、アチコチに「お出掛け」したことをまとめてみた
New Works (カテゴリ) へ GO!
ココに「別館&ついったー」関連のリンクを集めてみた
また、別館を増やしてしまった...
そして、北海道のイベント集のブログ化している
オフィス北国館 on チャンネル北国 tv (外部リンク)
が、バージョンアップしました!
それは兎も角!?
「この世」の中には、色んなヒトやモノがあって、それぞれに色んな営みが行われている
自分にとって「この出会いは、重要か?」って思うコトとともに、それを今後に活かせるのか?って考える
ほんの100年前は、出会い&発見!は「目の前」でしか起こらず、それに対処していけば良かった
けれど、最初は紙による「印刷技術」の進歩、その次のマスメディアの普及、そして第3の波である、パソコンに代表される「電脳の世界」が、この世界における「出会いの場所」を爆発的に拡げて来た
ハッキリ言って、みんな「お腹イッパイ」状態になっていることも、確かである
けれど、それが在る!から、今の時代がある!
やっぱり、自分で決めたい!のが、「自我」というモノを持った生き物としての、根源的な「欲求」である
そして、今までは、変わり様の無い!と思われた「序列」が存在していて、その中で、それぞれが決めることの出来ることが決まっていた
Free ≒ 自由
それは、自分で「自分にブレーキを掛けること」が出来なければ、もってはイケないモノ
最後は、何事(なにごと)も、自分で決めなければ、イケナイ!し、イケて無い!?
「誰かの指示待ち」状態で居たいのであれば、昔に戻らなければならない ...カモ根!?
ツ(^o^)シ
ちょっと気になる